【自己改造した植物・ナッパとダイコン】 有隅 健一 先生の論文です。
http://40anos.nikkeybrasil.com.br/jp/biografia.php?cod=1727
『私たちの50年!!』メーリングリストで唯一≪先生≫と呼ばれている元鹿児島大学農学部園芸学科で教鞭をとっておられ退職後JICAのシニアーボランタリーとしてアルゼンチンに4年3ヶ月勤務され南半球のアルゼンチンを中心に植物達が置かれた環境に如何に順応し種を残す為の努力をしているか、北半球の日本と比較、検討し大きな驚きと発見をしておられJICAへの報告書の一部を掲題の【自己改造した植物・ナッパとダイコン】として纏めておられます。有隅先生の落第弟子として先生が興味を示して下さるアルゼンチンと隣接するブラジル南部ポルトアレグレで採集出来る種をせっせと鹿児島に送らせて頂いており先生の研究の日本でも通用する稚樹開花性、耐寒性の賦与と云う課題をお手伝いさせて頂いています。(ブラジル国花イッぺー類、ジャカランダ、マナカ ダ セーラ等)。 写真は、有隅先生がその優れた開花性に注目、栽培を推奨しておられるブーゲンビリアの【田代赤】の苗木を頂いて来たのに枯らせてしまい幻の花になってしまった痛恨の花で飾りました。
(注)有隅先生の論文が、使用ソフトが図形、写真画像等を表示できない事から一部図形が正しく表示されずご迷惑をお抱えしていますが、全文は、下記URLで正しく読めますのでご参考にして下さい。 http://blogs.yahoo.co.jp/yoshijiwada2/35203237.html
かつて貧乏書生であった頃、何かの雑誌でフィッツ・ロイの写真を見て、何という凄まじい山があるのかと、感嘆したことがあった。が、何分にも日本の反対側、その当時の私の実感で言えば、最果ての遠い、遠い土地の山のこと、所詮は見果てぬ夢とそれとの出会いを諦めていた。そのアルゼンティンに、思いがけなくもJICAの仕事で訪れることになったのである。
このアルゼンティンで驚いたこと、それは今まで見たことも、そして花き園芸を志向しながら恥ずかしい限りだが、その名を聞いたこともなかった美しい花々と、巡り会えたことであった。この美しい花々との巡り会いについては、別の機会にお話しする機会もあろうと、思っている。それでここでは、今1つアルゼンティンで驚いたことを、書き留めておきたい。
アルゼンティンでの任地、ブエノスアイレスは丁度日本の対極にある。だから私は6ヶ月のズレはあるものの、日本と全く同じ四季があるものとばかり思っていた。それが、思い違いだったのである。確かに四季はある。だが、その内容が違っていた。例えば冬は冷え込みが足りないし、その他の季節も不安定で、思いがけない暑さや寒さが来ることがある。そしてそのことが、日本から見たら想像も出来ないような振る舞いを、植物に強制していることを知ったのである。北半球の常識は、南半球の植物には通用しない。いや、もっと極端な言い方をすると、北半球で出来た教科書は南半球では書き換える必要がある、とさえ思っている。
このような植物の反応の違いが、花の育種にどんな意味を持っているのか・・・・・。この地が花の育種にとって、他では求めることの出来ない、如何に恵まれた天与の地なのか・・・・・。 実は、そのことを書きたかったのである。
日本からブエノスアイレスにやって来て驚いたことの一つは、その気象特性が日本とは全くと言ってよいほど、違っていたことであった。ブエノスアイレスは南緯34度35分に位置する。これを日本に直してみると、ざっと対馬北端から益田、広島、岡山、大阪、浜松、伊豆大島を結ぶ線が、それに当たる。私は 福岡市 近郊の生まれであるから、この線のちょっと南(と言うことは北半球であるから、少し暖かい)で生まれ育ったことになる。自然が一杯の田舎であった。と言うことは、植物に囲まれて育ちあがったわけで、植物とはこういうものだという私なりの見方(概念)も、この自然との深い関わり合いの中で、醸成されていったわけである。その私の目から見て、ブエノスアイレスの植物の振る舞いの、何と奇異に映ったことか・・・・・。日本のそれと、どうしてこうも違うのか・・・・・。
ブエノスアイレスで先ず目についたのは、その根元が大の大人で十抱え以上もあろうかというインドゴムの巨樹が、至るところに見られるということ。ポインセチア、ブーゲンビレア、ハイビスカスなども平気で冬を越してしている。このような光景は日本では九州の最南端、植物の種類によっては種子・屋久、あるいは奄美大島以南でないと、まずは見られない。奄美になると、その緯度は28度23分である。アルゼンティンに直すと、コリエンテス州のベジャ ビスタだとか、カタマルカ州のサンフェルナンド デル バゼ デ カタマルカとほぼ同じ位置になる。日本では、そのくらいの緯度まで南下しないと、充分に暖かな冬が得られないということである。ところが、アルゼンティンでは、それがブエノスアイレスですむ。そしてその同じブエノスアイレスで、北方型果樹のリンゴやサクランボが立派に育っている。いったい、どうなっているのか・・・・・・。
開花についても、同様である。例えば、ナノハナやダイコン。これらは春の花のはずなのに、それが秋にも咲いている。それも返り咲きや狂い咲きとは全く違って、満開に。ヤマブキがまたおかしい。初夏の花なのに、ここではどうやら一年中咲いているらしい。ブーゲンビレアがまた然り。この花は熱帯性の植物なので、自然のままでどうやら越冬が出来るのは、九州の南端、鹿児島でも指宿以南である。そしてこの花が満開になるのは、秋もずっと深まってからで、春から夏、そして秋に入る頃までは全く花は見られない。葉っぱばかりである。それは、この植物が短日植物だからである。それなのに、ブエノスアイレス周辺では高温長日の真夏に、溢れんばかりに開花している。日本では凡そ在りえない光景である。
いったい、どうしてこのようなことに、なるのであろうか・・・・・
動物と違って、植物は動くことが出来ない。もちろん例外がないわけではないが、大半の植物は好むと好まざるに拘わらず、たまたま種子が芽生えた場所でその一生を過ごす。それで自然が送ってくれる情報を最大限に活用して、その生命を全うするとともに、子孫を残すのに全勢力を傾ける。その自然の情報の主なものが、日長と温度の変化である。
この2つの変化が重なり合って、温帯では春、夏、秋、冬という四季を形作る。このうち、日長は緯度さえ同じであれば、その変化は全く同じである。先ほど述べた対馬北端から伊豆大島を結ぶ線上の場所は、ブエノスアイレスと緯度は同じであるから、夏と冬が逆になるだけで、2つの場所の間の年間を通じた日長の変化は、何ら異なることはない。
ところが、温度はそうはいかない。緯度と標高が全く同じでも、温度が年間を通じて同じになることは、まずない。この温度を絡めたブエノスアイレスの四季の変化は、私の予想を大きく超えたものであった。「アッ、と驚いた」というのが、偽りのないところであった。特に「冬がいい加減」である。
別表にカステラールのINTAより得た1996年から1997年にかけての冬期3ケ月間の最高と最低温度を、日本の岡山のそれと対比して示した。具体的にはブエノスアイレスの6、7、8月の温度を、岡山の12、1、2月と夫々対比し、最高温度は最高温度同士、最低は最低同士で並べてある。また、最下段には旬別の平均温度を纏めて示した。
<この別表は省略>
ご覧いただきたい。まず最高温度については、ブエノスアイレスのほうが若干高い傾向にあるが、特に注目に値するのは7月と8月の両下旬に30度前後の高温、いわゆるベラニージョが訪れていることである。一方最低温度はベラニージョのときが高いのは当然としても、その他のときも日本よりかなり高く推移している。
言葉を換えれば、日本の冬は安定して冷える、特に夜はしっかりと冷え込むのに対して、ブエノスアイレス周辺は全般に暖かい上に不安定で、ひと冬に何回か真夏日が訪れるというわけである。
このようなブエノスアイレス周辺のいい加減の冬が、植物をどんなに困らせたか、そして植物がその困難をどう克服して今日の姿になったか、ブラシカ属を代表するナノハナ(実際は漬け菜類と思われる)を例に、私の推論も加えてお話ししたい。
かつての日本の春を飾る風物詩、それはナノハナの黄、ムギの緑、そしてレンゲの薄紅であった。毎年、毎年この三つの色が、日本の春を彩ったものであった。その風物詩の1つ、ナノハナが、アルゼンティンでは秋にも満開になる。私の常識では、全く考えられないことであった。何故、このような姿になったのであろうか・・・・・・
温帯から北の植物は、冬の低温がそれぞれの植物の生長に見られる、それぞれ固有のリズムを形作るのに、大きな役割を果たしている。子孫を残すための大切な作業である花を咲かせる、ということにも、冬は無くてはならないものである。
植物が普通の葉をどんどん増やしている状態を、栄養生長と言っている。が、やがて花をつける。この状態が生殖生長である。
花を形作る蕚、花弁、雄蕊、雌蕊などは、普通の葉(普通葉)が変形して出来たもので、
これらを花葉と呼んでいる。それ故、栄養生長から生殖生長に変わるということは、普通葉をどんどん作っていた状態から、花葉を作る状態に変わることを意味する(これが花芽分化である)。
この栄養生長から生殖生長への転換;つまり花芽の分化が起こるのに長い低温を必要とする植物がある。低温がないと、花芽分化が起こらない、したがって花を咲かすことが出来ない植物がある、というわけである。この低温によって、栄養生長から生殖生長への転換が起こる現象を春化(バーナリゼーション)と呼んでいるが、先ほど挙げたナノハナ、ムギ、そしてレンゲはその典型的な例で、これらは長い冬を耐え忍んでいるように見えるが、その実、冬があって始めて彼等は、爛漫の春を謳歌することが出来るようになる。そして彼等にとって嫌いな夏を、種子という生理的に最も安定した形でやり過ごすようにしている。長い、長い進化の過程で彼らは; 以上のような生育習性をかちとって来たのである。それがナノハナであり、コムギ、オオムギであり、そしてレンゲなのであって、長年にわたって獲得してきたこの本性は、そうやすやすと変わるものではない。
ところが、ブエノスアイレス周辺の冬は甚だいい加減である。冬全体の低温が厳しくないので春化自体が起こりにくい上に、一冬に何回か温度が30度以上にもなる真夏日が訪れる。広く知られたベラニージョ現象がそれである。そしてこのような高温が訪れると、春化の打ち消し、すなわち脱春化が起こる。長い低温の集積によって折角生殖生長に入っていても(入る体制が整っていても)、再び栄養生長へと引き戻されてしまうのである。
つまり、ブエノスアイレス周辺では冬全体の低温が厳しくないので、春化そのものが起こりにくいのに加えて、いったん春化された場合にも、高温による脱春化が簡単に起こってしまうことになる。
ナノハナで代表されるブラシカ属の仲間;白菜や漬け菜類、それにラファヌス属の大根は、元を質せば日本や中国などからこのブエノスアイレス周辺に入って来たものであろう。だとすれば、元々しっかりした低温要求性を持っていたはずである。だから、低温不足や高温による脱春化で、春になっても開花出来ない個体も多かったはずである。それらの個体は、引き続く夏の高温に耐え切れず、ばたばたと死んでいったに違いない。が、なかには何とか高温に耐えて、生き残ることが出来たものがあった。耐暑性の獲得と同時に、一年草から二年草や多年草(宿根草)への変身が起こったと、考えることが出来るのではあるまいか。このようなものの中から、低温ではなく、高温が花芽分化の直接の引き金(誘因)になる遺伝子型が出てきた。それが秋咲き型のブラシカだろうというのが、私の推論である。
今まで凡そあり得なかった新しい遺伝子型が、このブエノスアイレス周辺という、冬が不安定な気候だったばかりに生まれた、生まれざるを得なかった———生物種として生き残りを賭けた苦闘が、このような結果を生んだというわけである。
いっぽう、このようなものとは別に、冬の低温量が不足気味でも花芽分化可能な、また高温に遭っても脱春化しにくい、同じ春咲き型でも原形とは一味違った春咲き型への淘汰も、自然の中で行われたはずである。
こうして東アジアにあったときとは、全く違った生態的反応を示す遺伝子型が誕生した、と私は考えている。そしてそのことを実証するため、現在ブエノスアイレス周辺で採集した秋咲型の漬け菜と大根を1月おきに播種し、その開花行動を追跡する実験を行っているところである。長い間日本で採種を続けてきた、自家菜園用の小松菜を比較のための対照区に据えて・・・・・
いまひとつ例を挙げよう。シンテッポウユリもブエノスアイレス周辺の気候に困り果てていた。岡山大学を定年退官後、CETEFFHOの専門家をしておられた安井公一教授から、このユリ3品種の整理を頼まれたのは、播種後ほぼ1年を経過していた時点であった。何だかバラバラだなと横目には見ていたものの、いざこれを整理しようと本格的に仕分けにかかったところ、自分の目を疑いたくなった。品種とは到底言えないほど、千差万別であったからである。
ところでこのシンテッポウユリは、テッポウユリ(Lilium longiflorum)とタカサゴユリ(L.formosanum)の間の種間交雑の結果、生まれたものである。テッポウユリは鹿児島県本土から南西諸島にかけて自生しているユリで、暖帯産ではあるが、自然での生長周期は原則として年1回型である。すなわち;
と、言った1年1回を単位(周期)とする生育を繰り返している。したがって、自然の開花期以外にこのユリを開花させようとすると、特別の工夫が要る。
いっぽう、タカサゴユリは台湾原産のユリで、テッポウユリよりも暖かいところの産であるから、生態的に異なった反応をする。種子を蒔いて1年以内に開花すること、そしていったん開花してからも、次々にシュートを伸ばして開花を繰り返すことである。花や葉の観賞性は、テッポウユリに遠く及ばない。しかし、この開花特性は、何と言っても魅力である。シンテッポウユリは、タカサゴユリのこの優れた開花特性とテッポウユリの高い観賞性を一緒にした、新しいユリを創り出したいという狙いのもとに、作出されたものである。
別の見方をすると、シンテッポウユリは、テッポウユリという栄養繁殖型のユリを、種子繁殖型のユリに切り替えようとしたものでもあった。栄養繁殖では、突然変異が起こらない限り、同じ遺伝子型を幾らでも増殖することが出来るが、種子繁殖では常に有性世代を経過するので、遺伝的な変動を伴う。それで品種の維持には細心の注意が要ることになるが、いっぽうではたとえ親植物がウイルスに汚染されていても、子植物が健全であるのは、利点である。
さて、話を本題に戻そう。安井教授らが育てられていたのは雷山1号、雷山2号およびホワイトホーンの3品種であった。大きく見るとこれら3品種の開花特性は、雷山1号>ホワイトホーン>雷山2号の順で、雷山1号が最も優れていた。
しかし、個体単位で見ると、もうテンデンバラバラなのである。品種と言うからには、全体がビシッと揃っていなければ、品種とは言えない。それ故、種子繁殖型の植物では遺伝子型を揃えるために、自殖の繰り返しや、また自殖のきかない植物では、近親交配またはそれに近い集団選抜の繰り返しによって、遺伝的純度を高めていく育種操作が採られる。
そして純度が高まったところで(勿論優秀でなければ、ならないが)名前をつけて、品種として公表発売される。雷山1、2号にしても、ホワイトホーンにしても、日本においてそのような育種上の措置が採られていたはずである。だから揃いがよかった。それが何故こうも、テンデンバラバラなのであろうか。具体的に播種1年後の実態を見ると;
① ロゼット状態のままで、1年間頑として伸長生長を拒否。アグラをかいていたもの
② やっとロゼット状態から脱して、伸長(抽苔)を始めたもの
③ 長大に伸長はしたものの、まだ蕾が未分化のもの
④ やっと開花したもの
⑤ 第1次のシュートはスーッと伸びて早く開花したものの、それっきりで、次の腋芽は球(鱗片)形成をしてそのまま眠って(休眠をして)しまったもの。つまり、テッポウユリと同じ1年1回型のもの
⑥ 次々にシュートが立ち上がって開花を繰り返したもの。ただし、この繰り返しの速さや1回当たりの立ち上がりシュート数には、遺伝的な相違があるように見受けられたが、詳細は今後の調査に譲る。いずれにしても、最も多かったのは、1年間で8本もの切り花が切れた個体があった
以上のようで、同じ品種とは到底言えない大きな相違であった。さらにテッポウユリの自然の開花期が、冬を越した後の高温長日期にかかる時期であることからも、窺われるように、低温短日の冬期での花芽分化や開花は、いかにタカサゴユリの血が入っているとはいえ、やはり困難なようで、この点にも個体間にかなり大きな差異が見られた。また冬期間に、休眠をしないまま次の生長周期(次のシュートの萌芽伸長)に入れるかどうかも重要な点であるが、ここにも個体間差異が見られた。
いずれにしても、いかに種間交雑後代であるとはいえ、こうバラバラでは、雷山1号やホワイトホーンなどと品種という冠を冠するのは、おかしい。人によっては、このような品種の種子を購入・栽培して騙された、ペテンにかけられた、と思われるかもしれない。が、実は「そうではない」のである。
大学の学生だったころ、私は園芸を専攻していたが、隣の育種学の教室の永松土巳教授が、雑談のなかでポロッと漏らされた言葉を今でも鮮明に覚えている。青森で育種された水稲、交配後8, 9代の後代だったかと思うが、自殖を繰り返してホモになったはずの水稲を「福岡で栽培すると、バラバラにばらけて来るのだよ、ねえ」
青森という同じ場所での篩いでは、最初のうちは遺伝的な篩分けが効いても、やがては効かなくなる。ところが、福岡という生態的に違った篩いにかけ直してみると、見えないものが見えてくる(篩いが効くようになる)。混系だったものが、福岡では露呈されたことになる。
「なるほど、生物とはそういうものだったのか」と納得したのを覚えている。雷山1、2号もホワイトホーンも、日本ではもはや篩いが効かなくなっていたのである。
さて、ここまで書いて、皆さんも私が何を言おうとしていたか、お判りになったと思う。
ブエノスアイレス周辺の四季、特に冬がいい加減であったばっかりに、一つは植物自体が自分自身を作り換えざるを得なかったこと、そうしないことには「種」として生き残ることが不可能だったこと、いま一つは、四季のはっきりしたところでは潜み隠れていた遺伝的特性が、ここでは白日に晒されたように立ち現われること、別の言い方をすると、変異が大幅に拡大され、見えないものが見えるようになることであった。
ブエノスアイレスのこのような気候特性を活かさぬ法はない。生態的育種を行うのに、ここは将に天与の地であると言ってもよかろう。ブエノスアイレス周辺の植物を見つめていて、これが私の得た結論であった。そしてこの一言を皆さんに言いたかったばっかりに、饒舌の限りを尽くしたのであった。「日本でも、オランダでも出来ない仕事を、このブエノスアイレスでひとつやってみませんか」、と。
■ イントロン;働いていない遺伝子領域
大腸菌や枯草菌などの原核細胞生物では、持っている遺伝子の100%が活用されているが、真核細胞生物ではイントロンと称して遺伝子のなかに働いていない(眠っている)領域がある(イントロンに対して、働いている領域をエキソンという)。イネ、ダイズ、メロンなどの植物では、この働いていない遺伝子領域が圧倒的に多く、95%ていどがそれであるといわれている。
ブエノスアイレス周辺における秋咲性のナタネやダイコンは、この眠っていたイントロン部分が、特異な気候に遭遇することによって、長い長い眠りから呼び覚まされ、活動を開始したのかもしれない。
いずれにしても、高温がこれらの植物の花芽分化の直接的な引き金になるとすると、これは従来の定説を完全に覆す、重大な新事実と言わねばならない。
■ サンパウロのデルフィニウム
1997年10月6日から11日にかけて、サンパウロ周辺の花の生産を見る機会を得た。そのときグレウ時代のJICAの研修を受けたという大久保青年に出会った。大変な勉強家のようで、リシアンサス、ストック、キンギョソウなど、いろいろな切り花の生産に実に意欲的に取り組んでいたが、その彼が悩んでいたのが、日本から種子を取り寄せて初めて挑戦したデルフィニウムが、彼の期待どおりに育ってくれないということであった。
生育が個体によってバラバラなのである。まだロゼットのままのものから、とうに開花したものまで、開花期に大幅なズレがある。草姿もまたマチマチな上に、切り花の生命ともいうべき長大な花穂が見事に伸び上がったものもあるにはあるが、一方では花付きがまばらだったり、最初はスーッと伸びかかったものの先端部が団子状に寸詰まりになった売り物にならない花があったりといった具合。そして真面目な彼は、自分の栽培の腕が悪いばっかりに、こんな結果しか出なかったのだと、自分自身を責めたてていた。
切り花用のデルフィニウムは、Delphinium elatumが主体で、4倍体である。だから遺伝的に形質を揃えること(ホモ化)が難しいという一面は確かにある。しかし私はサンパウロのように四季が曖昧、かつ冬がいい加減のところでは、このような結果が出るのは当り前だと思った。そして自分自身で採種をするようにと、大久保君に提言した。
事実、彼の広いデルフィニウムの栽培圃場には、ほれぼれとするような見事な花穂をつけた個体が、幾らでもあった。「大事なことは、このような個体を切り花として売らないこと。このような個体だけから花粉を集め、混合花粉で充分だから、このような集団内だけで相互交雑をすること。そうすれば、サンパウロのようなところでも確実(100%)に長大な花穂をつけて開花する系統が出来る。切り花用の種子を年々日本やオランダに仰ぐようでは、百年河清を待つが如きものです」というのが具体的な私の提言であった。
立地を活かした、日本やオランダでは篩分けの不可能な育種をやって、種子を園芸先進国に逆輸出しては如何でしょうか。