花談議424 ≪つねざわ農園に行ってきました≫ しゅくこさんからのお便りです。

 村松さん。しばらくパソコンの前に落ち着いて座れなく、ご報告が遅くなりすみませんでした。

 

実はすばらしい経験をさせていただき、どう書いていいものか迷っていたことも遅くなった原因です。

 

農業関係の知識はまったくないのですが、思ったまま、感じたままをお伝えしたいと思いました。思い違い、的外れが多々あるかと存じますが、いま村松さんの「島から大陸をめざして」と常澤さんの「専業農家の経営戦略」を読んで、勉強させていただいてるところです。

 

常澤さんにもお送りするつもりですが、村松さんからもよろしくお伝えくださいますよう。

 

ありがとうございました。

1) つねさわ(常澤)農園に行ってきました。

 

                       しゅくこです

 

4月24日、ご紹介頂いた ご友人のつねざわ(常澤)農園に行ってまいりました。

わたしの住む三田市のニュータウンの外周は歩きなれた散歩道ですが、その途中に、神戸市北区長尾という一角がちょっと入っています。そこは、つねざわ農園のある神戸市八多(はた)のすぐ近くで、車で行けば目と鼻の先ですが、なにせ方向音痴のわたし。山野のなかの運転で迷子になりそうなのでかなり遠回りして神鉄、神姫バスを乗り継ぎ、近くのバス停まで迎えに来ていただきました。

家を出る前に、「すぐわかるように真っ赤な服を着ていきます」と電話をすると、奥様は笑いながら「歩いている人などいませんからすぐにわかります」と言われました。

小雨の後の六甲山を超えた北側一帯は、幾層ものしっとり湿った緑を深く織り込んだ、人っ子一人いない田園風景の中でした。

 

農家の方はとてもお忙しいと分かっていたので、暇人の訪問者に長時間さいていただくことだけは遠慮したかったです。

なので「30分程度農園をみせていただいたらおいとまします」となんども確認をしてそのつもりで出かけたのでした。

どっしり構えた農家の門から入ってすぐ右に来客用の部屋。心地のいい深いソファ。あらためて目の前にするつねざわさんは、背筋がしゃんとして日焼けした笑顔。土と汗できたえあげたそのオーラには圧倒されました。なにせ、300年も続いている筋金入りの専業農家の後継者ですから。

2)少年から青年へ

話はこの辺一帯が有馬郡であったころから始まる。

1938年生まれのつねざわ少年が13才の時、神戸市になり、1963年4 月2日、25才の時、各都道府県から2人、総計93名の選ばれた農業実習生とともに、大阪商船「さくら丸」で1年間、カリフォルニアに渡航。わたしはその1年前の1962年の夏には「あるぜんちな丸」で神戸を出港し、すでにカリフォルニアにいた。おりしも、1963年の11月22日のケネディ暗殺事件は共通の話題でもあった。同じ時代を過ごしたわたしの「アメリカン青春グラフィティ」の中には、日本からこういう若者たちが研修にきていることなどまったく知らなかった。たくさんの貴重な写真を拝見しながら、古き良き時代のカリフォルニアの昔話に花が咲く。

翌年の1964年、帰国されるが、当時としては珍しいアメリカ帰りということで、好奇の目と期待を背負いながら、青年は農業一筋に持前の底力を発揮していく。

アメリカの農業研修で得た新しい視野。それはそのまま日本の農業に当てはめることは難しい。日本の農業の生き残りのため、空いている農地の今の時代に合わせた利用の仕方。経営を合理化し機械化していくことなど、アメリカで学んだことをヒントに絡み合わせて、

暗中模索していくつねざわ青年の姿が浮かびあがってくる。

目的と責任を忘れることなく渡米した青年はその後もぶれることなく多くの新聞、雑誌へ記事の掲載や講演を通して、地域の活動も展開されていく。同じ時代をアメリカで過ごしたかれにはなんと豊富な話題があることだろう・・。

3) 中身の濃いご著書と手作りの桜ジャム

2010年、帰国後45-6年経た71-2歳の頃、その集大成とも思える「専業農家の経営戦略」350ページに及ぶ著作を出版された。とても興味深い内容であることは、お話をさせていただいている最中からすぐに直感で分かっていた。この話の続きは帰ってじっくりと味わいたいので、「本の予備はもうあまりないのですが・・」と迷われるのを無理やりお借りすることに。

気が付くと予定のバスの時間が過ぎていた。

「大丈夫、大丈夫、次は1時間後にきますから」 ついその笑顔と穏やかな語り口調に引き込まれて、お嬢様が出してくださったケーキとコーヒーをいただく。手作りの桜ジャムはきれいな薄いピンク色に梅酢で色をつけ、とろみはペクチンで、と教えていただいた。市販のジャムはわたしの舌から胃壁にべったりつくようで甘すぎて重い。しかし、これはさっぱりしていて、後日の連休中の客にも喜ばれた。

 

4)   ご自慢の畑や農作物などを見せてもらうことに。

 

屋敷の裏手にまわるとすぐ裏山に続く緩い坂があった。池沿いの低木で休んでいた体調60cmくらいのコイサギが、わたしたちをみて、いきなり羽を広げ、低空飛行でゆっくり場所を変える。わが三田のニュータウンでも池がたくさんあって、まわりの樹々の間からシラサギとアオサギに会っていたが、頭が緑黒色で羽が灰色のサギは初めてだった。

春ののどかな空気をいっぱいに吸いながら、ゆっくり坂を登っていくと、そこにも初めて目にする黄色のライラック、そして、年季のはいった満開の八重桜が待っていた。お手作りの桜ジャムはこの花びらを使ったのかもしれない。

眼下にはるか遠くまで広がる緑の山野と畑。 その中にどっしり構える300年の歴史の屋敷。かつて、つねざわ少年が走り回っていた広い里山の世界。その少年の輝く眼差しはいまでも変わらない。都会育ちのわたしにとって、この風景の中で呼吸していること自体が現実ばなれをしていた。

 

5)   チューリップさま

これはどうしても書いておきたい。

目の前に広がるチューリップ畑。まるでおとぎの国の中に迷い込んだのかと目を見張る。

ずっと見渡す限り一面に色とりどりに畑を染めている。せいぜい 客がある日のためとか、誰かのお祝いにやっと思い切って買うチューリップさまだ。花屋の前で、たたずんで値段と相談しながら、やっと7-8本を決めるまで、わたしは何分かかるだろうか。

「出荷はそろそろ終わりです。これは全部廃棄です」耳を疑った。

「えっ!! なんとおっしゃいました?」おもわず悲鳴に似た声をあげた。「もったいない…」お店に並んでいる見事なチューリップは、ここではゴミ扱いなのだろうか!!

「球根も病気のものがあるからすべて処分します」

わたしの声がよほど未練たらしい、もしかして抗議でもしていそうな勢いだったかもしれない。かれはチューリップの間を歩きながら、蕾のまだ固いものを慎重に選んで切り、持たせてくださった。 生産者と消費者との大きな違いがここにある。そんな当たり前のことを、このチューリップたちは改めて教えてくれた

6)  蔵の中

裏庭に降りてきて、案内されたのは蔵。

ウキウキした笑顔で戸を開けてくださった。古い農機具でも入っているのかと思ったが、な~んと一棟には世界の缶ビール各種。別の棟には蔵書がびっしり。お会いしたときから、楽しい人だと思っていたけれど、秘密のおもちゃ箱を開けてくれたような、無邪気な 遊び場があったとは。うなずける。

7)花束のプレゼント

ビニールハウス 4棟を見学。 ビニールハウスと呼ぶのか、温室と呼ぶのか聞き忘れた。つねざわさんが「台風が一番恐い」とつぶやかれた言葉が耳に残っている。

           

  

ピンクと白の香り良いストック、黄、紫、赤のスターチス、育てるのが難しいブルーベリー、名も知らない初めて見る花たち。つねざわさんは、花に語りかけるようにかがみこんでハサミを鳴らす。それぞれの個性が違う花々が瞬時にわたしの腕のなかに納まっていた。

アザミのような花は奥様が育てられたという。

後日のお電話で、「タネの入っていた袋をうっかり無くしてしまったので名前は知らないんですよ。日本では菜の花を堆肥にして埋めるように、あれもアメリカではよく鋤 ( す )き込んで堆肥にするんです」と教えていただいた。わたしの小さな庭にも一株だけ菜の花が咲いている。食用であり生け花にもなる。花屋で買うと1本100円もするけれど、今年は爆発的に咲いて生け花にすると、室内を明るくしてくれた。最後に「これからは嫌な季節です。虫が出るし、暑いし」と話された。わたしには計り知れない農家の苦労がある。

もっと若ければ、畑の隅っこで働かせていただきたいのに・・・・

 

ポニーでも飼って、その一角が地域の子供たちと交流できる馬場をつくっていただければ、まだわたしにも役にたつことがあるかもしれない。

空想は春の夢のようにうつつと果てしなく広がっていく。

8) 貸し農園

 

広い貸し農園はいくつかに区切られていて、それぞれの前には小さなログハウスが建っている。農機具の収納や、風雨や酷暑を避けられる。六甲山を挟んで南の神戸市東灘区からは、トンネルをくぐってお客さんが通ってくる。面白いことに、定年退職されたご主人の方が熱心に通われているという。三田からはあまり客がこない。というのも、三田は三田の中で貸し農園をしているところが結構あるからだ。私の友人も何軒か畑を借りていて、みんなご主人がせっせと働き、収穫し、奥様が採りたてを調理して食卓で舌鼓を打つ。残りはなにもしないわたしの台所にも登場する。

 

それにしても、今後この広い農地をどう維持されていくのであろうか。お父様が養子に入られ、校長先生をされていた頃もあったという、この地でも指導者的な存在の家庭であったに違いない。

ご子息のアメリカ研修を応援されたというのもなるほどと思う。

「農地は3年ほったらかしにしていると草と木が生えて、元どうりにはならない。パーになります」。つまり荒廃田になるということだ。これからの専業農業を次の世代へバトンタッチしていくには一体どうしたらいいのだろう。元気なご自慢のソラマメがいっぱいに赤紫の花をつけている。そのはちきれそうな花が、愛情豊かな農園のすべてを物語っているようだ。

きちんと手入れされた貸し農園をみながら、そんなお話をしていただいた。

 

9)  そんな花も、こんな花も

あっというまに3時間近くお邪魔していた。

帰りの電車に揺られながら、膝の上のどっしり重い花束をなんども覗き込む。つぼみがまだ固いせいか、ちょっと目には野菜に近い感じがする。

帰宅して、まっさきに感じたのは、小さな小さな子供の箱庭のようなわたしの庭。狭いと言ってもニュータウンでの見慣れたサイズなのに、さきほどまでいた大農園の後にこの風景は目をそむけたくなるほどせせこましい。

いただいた花たちの茎の先を切り、テーブルの花瓶に並べて眺めている。いつもは庭の草花が部屋を飾っている。草花はそっと寄り添う脇役の癒 ( いや )し系。しかし、プロの育てた花々は、華やかな色と発散する空気が力強く、眠っている魂を目覚めさせてくれる。さっそく、菜の花の古くなってきた葉を刈り込んで、元気のないナンテンの根元に鋤 ( す )き込んだ。 

それから2日たってわたしはふと気がついた。

まず選ばれた花の種類である。見栄えの豪華な春の女王チューリップ。香りのいいストック、はじめてみる珍しい花。ドライフラワーにもなるスターチス。色の取り合わせもさることながら、それぞれの個性の違う花々が選ばれていたことを。

先の硬い蕾 ( つぼみ )が机の上の、わたしの目の前で少しずつ見事に開いていく。花たちが演じる無言のドラマチックな展開。しかし、これが偶然ではなく、実はプロのお見立てであったのだ。

 

連休がはじまってお二人の著作を読む楽しみはお預けになった。

開きはじめた柔らかい蕾 ( つぼみ )と花を部屋のあちこちに飾ると、連休らしい賑わいがさらに湧きたった。

その間も、わたしは動物に話しかけるようにいただいた花たちにご機嫌のおうかがいをたて、毎日毎日茎の先端を切り、水を新鮮なものに変えた。

すべての予定が終わってもとの静かな生活にもどったその日から、チューリップが待っていたように静かに花びらを落とした。

10日たって、香りのいいストックがお役目を終了。名前の分からなかったそのアザミのような花は、目の前のテーブルの上で、たった一人の観客に、少しずつ開いて不思議な形を展開していく

しかし、残りのスターチスは2週間たったいまでも、ますます鮮やかな色を誇り、このままドライフラワーのクリスマス・リースに変身するだろう。わたしの亡きあとも花好きな孫たちへのプレゼントとして残るかもしれない。

生産者が花にハサミを入れるタイミング。それは、消費者の家の花瓶に収まって、しばらく楽しんでもらう、その時間まで計算されているプロとは、幅と深みのワザの切れ味を迷いなく一瞬にして出せる人。それはハイレベルの追求をした厳しさの結果に生まれるもの。そんな花もある、こんな花もある。それぞれが個性的に生きていけるように消費者に届けるのがプロである。そういうことだったんだ、とわたしは一人で納得する。

ここでもチューリップ畑で知ったときのように、生産者と消費者の間の大きさをあらためて感じさせられた。

 

10) 農業は大変、でも自然の中で働くことは素晴らしい

 

「農業は大変ですが、自然を相手に、やはりやりがいのある仕事です」柔和と朗らかさを湛えたつねざわさんのこの言葉が胸に残った。専業農家としてこの時代を生き抜いていくのは難しいテーマである。

しかしながら、彼には孤立していくのを避けながら、互いに助け合って経営をしていける幼友達の農業仲間がいる。大丈夫、お嬢さんもまだ若い。きっとお婿さんと一緒に跡を任せられるだろう。奥様もよき片腕としてずっと農園に力を注いでいらっしゃる。それはご著書の中にも書かれている。今の時代、老いも若きも昔ほどの問題はない。シニアたちは元気である。男も女もない。そして、なによりも夢を追うことに定年はない。

連休にきていた孫たちが去ったあと、ぼんやりした空虚さの中にその残像が残っている。老描のシロにまとわりついて「遊ぼう」と言っている。驚かさないようにそっと近づく2人の手には、つねざわ邸の玄関脇に生えていた「ウサギのしっぽ」がネコジャラシになっていた。

 

いったん中断されたお二人のご本をまた読み始めた。そして思った。花にもそれぞれの役割があるように、生産者が日本の農産業に苦労して模索を続けている今、実は、わたしたち消費者も、その演出をする人たちも、それなりの同じ責任を担う役割があるのではなかろうか。せめて日本の農業問題についてもうすこし知ることが必要であると思う。

いずれにしても、もう少しきちんとご著書を拝読しょう。読みきった後の感想はまた違ったものになることは確かだろう。それまで、勘違い、思い込み、多々あることをお許しいただきたい。

おりしも、ブログで松栄さんがご紹介くださった下記の記事と

わたしの今回の訪問記で感じたことはリンクしている。

だから素人なりに書かせていただいたことをよかったと思えた。

 

                        

 

村松さん、常澤さん、良い経験をさせていただきありがとうございました。

こんごともよろしくお願いいたします。